先祖を辿る

先祖を辿ってみた

ある系図

家系図

 

此男─文治(定治)┬秀達┬得造─延男

         │  ├★

         │  └秀雄

         ├種治

         └(正勝)

(元陪臣卒勤功書上により)

(2023/4/21 某家戸籍により修正)

(2023/4/28 戸籍以外の情報について再修正)

(2023/11/5 文治→定治 改名を反映)

★が私の父方祖父である

異なる苗字なので名前は記さない

 

なお、得造・★・秀雄はすべて母親が異なる

 □ 秀達 
 ├□ 得造 母1⃣
 ├□ ★  母2⃣
 └□ 秀雄 母3⃣

名前から察するに、秀達は秀雄に家を継がせたかったようだが
残念ながら幼くして亡くなったため、得造が家督を相続した
★は、母2⃣の実家の戸籍に入った

 

此男は幕末の鳥取藩家老、池田式部利寿の家臣で

御坊主、仲小姓を勤めたと「元陪臣卒勤功書上」にある

元陪臣卒勤功書上 此男・文治

文治から定治に改名(士族家禄渡不足精算書上より)

定治の職業は不明であるが、明治初期に東京に来たと思われる。

秀達は巡査であったらしい。(デジタルコレクションの調査による)

得造は乾海苔の仲買人であったことが、デジタルコレクションの調査で判明した。

秀雄は幼くして、延男は若くして亡くなった。

したがって、秀達の男系子孫は、祖父の系統以外断絶している。

 

なお、正勝は定治死去を知らせる手紙に「政勝」と記載されるが、定治の息子と思われる。

日清戦争日露戦争に従軍したことが官報から読み取れる。

また東京都公文書館にも正勝の名が記載された資料が出てくる。

 

参考資料

https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1204524/8660.pdf

pdfの12ページ(元資料では21ページ)に某氏(=定治)発病死亡の記載あり

pdfの14ページ(元資料では25ページ)に秀達・秀雄親子の名前あり

 

とある書籍における、秀達の妻と子供に関する記述

「と、表から入ってきたのは〇〇のおかみ(*1)だった。
 狸の云ったように、背中におぶった小児(*2)は、
 既に一度は死にかけていたが、
 師の手にかけられて命をとりとめたのであった。
 そのおかみは、他にも子供を連れていた。
 狸には、それらがちゃんと判ったものらしい。」
(中略)
「その翌日、〇〇の長男(*3)の片足が急に短くなって、
 一夜作りの跛(びっこ)が出来て大騒ぎだ、
 という知らせがあった。変な話だと思いながらも、
 師は駆け付けてみると、どうやら狸の仕業らしい。
 調べてみたら、火鉢に叩き込まれたぼんちの仲間が、
 方角違いへ仇討ちにと出かけたことが分かった。
 師はその場に追い払って、跛は幸いにして、
 元の完全な足に戻りえた。」

「〇〇のおかみというのは、
 深川■■橋際の寄席、■■亭の娘で
 芸人の■■を知っていたのも、
 そうした関係からであった」

 

(*1)上述の系図の母1⃣とおもわれる

(*2)得造の妹と思われる

(*3)得造と思われる